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インターネット会報2004年7月号

【解説】 「虚無僧取締につき申渡覚」から見る“留場”への移行」                                            貴志清一  

江戸時代後期、堕落した虚無僧が多くなり、虚無僧寺自体がゆすり、たかりの機関とも呼べるような状況になってきたため村々では自衛策として自村を「留場(とめば)」にしてもらい虚無僧が入ってこないようにしたということを、前回(会員配布会報189号)に述べました。  留場にしてもらった村々では留場料という上納金を虚無僧寺に払っていました。  

今回紹介する「虚無僧取締につき申渡覚」は京都に比較的近い大阪府北部に実際に虚無僧が入り込んできて、明暗寺の支配が及んでくる様子がわかる史料です。  このあたりの関係を大阪府の「池田市史(P.411)」から見てみます。  

(大阪府)池田市域において、近世後期の宗教に関してはもっと深刻な問題があった。虚無僧や寺社の勧化人など外部から訪れる宗教者と、村々との間の軋轢である。  虚無僧は普化宗の修行者で、京都大仏本池田町の明暗寺などを本山とし、天蓋で面体を隠し、尺八を吹きつつたく鉢して歩いた。  寛政年間(1789~1801)、池田北の口には虚無僧宿があり、これを拠点にして(大阪・池田)市域村々にも虚無僧が多く訪れた。  中には布施を強要したり、強引に宿を世話させるような宗教者らしからぬ者もおり、偽物も横行したことから、村としばしば衝突を起こした。  幕府は安永3年(1774)の触れで虚無僧の不法を禁じ、不良な行いをする虚無僧はとらえて支配役所に連行するよう命じた。  この触れは、なぜか当初、細郷幕府領村々には通達されず、安永9年(1780)8月に村々の要望により、代官小堀が改めて通達している。(山本家文書)しかしその後も虚無僧の方々が続いたので、村々は領主に取締を要求するだけでなく、自衛手段を執るようになった。その一つは村が特定の虚無僧を取締人として雇い、村に入ろうとする他の虚無僧の管理を請け負わせるものである。  また、文化年間(1804〜18)以降は、本山の明暗寺に直接一定額の留場料を支払い、代わりに虚無僧が村に立ち入らないように監督させる留場制が一般化した。

 以下に引用する「虚無僧取締につき申渡覚」は池田市のとなりになる能勢町に残る天明8年(1788)の史料です。丁度この時期は留場制の一般化の前段階に当たり、興味深いものです。  全文を掲載しますので江戸後期に生きた人々の様子を少しでも思い描いていただければ幸いです。 (改行は原文と同じ。字句の間違いはご指摘ください。) (大阪府『豊能町史』近世編 p363 史料八六 吉川区有文書)

一、近年村々江虚無僧入込 如法ニ可致修行儀ヲ   差置 村々庄屋 或者寺院并俗家へ立入 種々 巧言お以 無心合力等申掛候節、村方困窮ニ付 右之段 難相調旨、申聞候得共 六ヶ鋪申掛村役 所役用 并農業渡世之妨ニ 相成 候様 相聞 不届至極候 然所 虚無僧之儀ハ右躰之致不法ハ 無之 尺八修行一通お以 諸国 致往通 俗家へ 對し合力 賄等 可申請法式ニ 無之 依之 自然 法外之族入込 不法之儀 有 之候節者 此書付 被読聞 弥 不致 承知 不法申募候時者 縦令 何連之 門弟与申立候共 虚無僧姿ニ候ハハ 其所江 被掛留置 此方江 可被申出候 早速 役僧 差下 宗門之仕置 可 申附候 事  但 一宿之儀者 或 病僧与申立候共 木銭  飯料 不差出候ハハ 其所江止宿 不相叶段  急度 可被申聞候 虚無僧本寺 京大仏 明暗寺院代 寛哲 天明八戌申年 二月日          小堀数馬様御支配所          摂州能勢郡吉川村 庄屋 年寄    中 惣百姓  

近世文書に不慣れな方のために読み下しを記します。

一、近年村々へ虚無僧入り込み 法のごとくニ修行致すべき儀ヲ   差し置き 村々庄屋 或は寺院ならびに俗家へ立ち入り 種  々巧言をもって 無心、合力等、申し掛け候節、村方困窮ニ  付き 右の段 あい調え難き旨、申し聞かせ候えども むつ  かしく申そ掛け 村役 所役用 ならびに農業渡世の妨げに  あい成り 候様 あい聞こえ   不届き しごくに候 し  かる所 虚無僧の儀ハ右躰の不法を致はハ 之れなく 尺八修行一通りを以って 諸国 往通いたし 俗家へ 對し合力 賄等 申し請くべき法式ニ これ無し これに依り 自然 法外の族 入り込み 不法の儀 これ有り 候節は 此の書付 読み聞かせられ いよいよ  承知いたさず 不法申しつのり候時は たとえ いづれの 門弟と申し立てとも 虚無僧姿に候はば 其の所へ 掛け留め置かれ 此の方へ 申し出せらるべく候 早速 役僧 差し下し 宗門の仕置  申し附くべく候 事  但 一宿の儀は 或は 病僧と申し立て候とも 木銭  飯料 差し出ださず候はば 其の所へ止宿 あい叶わざる段 きっと 申し聞かせらるべく候

○この書き下しにより、だいたいの意味がとれると思います。  ただ、留場制度めぐる虚無僧の歴史を全く知らない方も尺八愛好家には多いと思いますので、私なりに補足しながら現代文にしてみます。  なにぶん素人ですので、思い違い等はご指摘ください。

(現代文)  村々の言うには、 「最近、京都に近い大阪府の今の池田市や能勢町にあたる村々へ虚無僧がしばしば入り込んできます。虚無僧は決められた法式で修行すべきなのですが、それをしないで村々の庄屋さんや寺院、そして一般の家へ入ってきて、色々うまく言いくるめてお金や施物を強要するので村では大変困っています。  そして、そんなお金や施物は出す余裕がないと言って断るのですが、無理難題を持ち出して、村の用事や農業の仕事に支障を来しています。」とのことです。  以上のようなことは不届きこの上ないことである。 虚無僧はそのような不法をすべきではなく、尺八の修行だけをして諸国を巡るべきで、一般の家に合力や賄いを申し受けるものではない。  だから、自然と無法な虚無僧たちが村に入り込み不法をはたらくときは、この明暗寺の出している書き付けを読み聞かせ、それでも言うことを聞かないときは、たとえ「○○の門弟だ。」とわめいても虚無僧の姿ならば、そこに留めおいて明暗寺に知らせなさい。早速、明暗寺の役僧を派遣して普化宗の罰則を与える。  また、一日の宿泊に関しても、たとえ病気だといっても宿泊料食事料を払わないなら、そこへ泊まることはできないということもきっと申し聞かせなさい。

 以上が私なりの訳ですが、お読みいただいて何かの尺八吹奏上の参考にしてください。 なお、尺八研究家の神田可遊氏から前回の189号にたいする短いコメントを頂いておりますので合わせて記させていただきます。  神田氏には紙面をお借りいたしまして厚く御礼申し上げます。

「前略  写真の留場証文は、覚え書きに継印がしてあって珍しいものではないでしょうか。本則には継印しますが。  大阪のこの辺りの留場証文類が大量に売りに出たのか、宮城道雄記念館や中央大学に存在しています。」