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インターネット会報2011年1月号


  薦僧から虚無僧までを絵でたどる(1500年〜1800年)
                                           貴志清一
はじめに
尺八愛好家や演奏家でありながら尺八の歴史をあまり知らない人も多いかと思います。これは、適切な本や文献が手に入りにくいこととも関係していますので、あながちそのような人の不勉強だけではないと思います。 しかしあまりに歴史的な基本事項を知らないと尺八の本質を見失うことになりますので、微力ながら尺八の歴史についての知識も広めたいと考えています。
 その一環として、ここでは尺八を担ってきた薦僧(こもそう)・虚無僧を絵の資料で見ていきたいと思います。

○分かり易いように、まず西暦年代を左に、だいたいその時期にあたる絵画資料名を左に書きますと、以下のようになります。
 会員のみなさんは3枚目のカラーコピーをご覧下さい。会員以外の方は文末のインターネット上で参照できる画像をご覧下さい。

@1500年 「三十二番職人歌合」(1494年頃 明応3)
A1550年 「月次風俗図屏風」(16世紀中期 東京国立博物館)
B1600年 「職人尽図巻」(岩佐又兵衛 1630年前後 根津美術館)
C1650年 「京童」(1658年 明暦4)
D1700年 「人倫訓蒙図彙」(1690年 元禄3)
E1750年 「虚無僧と二人の女性」(礒田湖龍斎明和‐天明に活動)
F1800年 「東海道五十三次(坂の下49)」(葛飾北斎)

では、順を追って見ていきましょう

@1500年 「三十二番職人歌合」(1494年頃 明応3)
 虚無僧のもとは徒然草115段にでてくる宿河原で決闘する「ぼろ(暮露)」らしいと言われていますが、はっきりと尺八を吹いている図の初出が「三十二番職人歌合」です。
 これは「こも僧」と書かれていまして、持っている竹は明らかに3節のいわゆる「三節切(みよぎり)」尺八のようです。30cm余りの一節切とは明らかに違っています。この頃連歌師の宗長がまとめた「閑吟集」にでてくる尺八は一節切ですので、薦僧が吹いた尺八と一節切は併存していたことが分かります。  

A1550年 「月次風俗図屏風」(16世紀中期 東京国立博物館)
 時代は天下統一へ向かう時期ですが、薦僧は明らかに寝具としての薦を腰につけています。また、吹奏してなにがしかのものを頂き、生活していたことが窺えます。脇差しのようなものを腰に差していますが、これは自己防衛の為で、武士のような長い刀はさしていないようです。裕福な呉服屋の前で吹いていますので、その社会的な地位が低いことが分かります。

B1600年 「職人尽図巻」(岩佐又兵衛 1630年前後 根津美術館)
 秀吉の天下統一が1590年に小田原の北条氏滅亡を持って完成します。その際、北条氏の家臣の多くが流浪を余儀なくされました。北条氏は早雲の第三男・北条幻庵が一節切の名手だったこともあり多くの家臣が一節切の尺八をたしなみましたので、関東に散っていった浪人が虚無僧集団を形成していきました。
 関ヶ原の戦い、それに1615年の大阪の夏・冬陣で沢山の浪人武士が世の中に溢れました。
 この絵を描いた岩佐又兵衛も、ある意味浪人武士でした。岩佐又兵衛は伊丹の有岡城主:荒木村重の子で、信長に母親を初め一族を惨殺されたとき、奇跡的に死を免れ乳母に守られて本願寺の顕如に保護されました。1578年生まれで6歳ごろまで本願寺に世話になりました。
 今のように平和な時代ではなく戦いの後は平気で死体が野原に転がっているような時代です。1580年に顕如が信長に降参し大坂の石山本願寺を退却し1583年〜85年(秀吉の紀州攻めの年)には大阪貝塚の今の願泉寺にいましたから、当然又兵衛も貝塚に2年ほど住んだことになります。
 私事に亘りますが、私の退職前の職場が貝塚市でして、特に後半の11年間はこの願泉寺、いわゆる貝塚御坊の町並みを毎日歩いて通勤していましたから、余計に歴史が身近に感じます。もちろんその頃の貝塚は1585年には根来衆と秀吉軍の戦場になったほどですから、もう危険が充満していた中で又兵衛が幼年期を過ごしたことになります。
 最終的には又兵衛は絵師で生きていくのですが、自分も敗者の城主の子ですので、諸国を流浪する虚無僧には特別な思いがあったでしょう。そういう視点からこの絵を見ますと、なにか訴えるものが写真からでも分かります。(東京の根津美術館所蔵ですから、一度は見て見たいです)
 これは又兵衛の落款「勝以」があり、研究者によりますとおよそ1630年前後の福井時代の作品です。
 各時代の虚無僧の図が残ってはいるのですが、武士が使う長い刀を差している図はこれだけでしょう。
 こんな長い刀を差して托鉢すれば、怖がられて托鉢どころではなくなりますので、虚無僧は早い時期から帯刀しなくなりました。その意味でもこの図は大変興味深いものです。
 嬉しいことに、右の方から子供がお米でしょうか、親からいわれてこの虚無僧にお布施を渡しにでてきています。

C1650年 「京童」(1658年 明暦4)
 この頃になると長い刀は差していません。京都伏見の様子を描いたものです。この頃には京都の明暗寺が形をなしていますので、そこに集まった虚無僧でしょうか。この図も嬉しいことに、二人の子供がお布施を渡そうとしています。
 この絵と同じ頃に「糸竹初心集」が発刊されました。そのなかの虚無僧に関する記事がまさしく、この京童の図の虚無僧が吹奏する普化尺八です。
 「糸竹初心集」(現代語訳)によりますと、
 “虚無僧尺八というのは、その始まりはあまり良く知りません。昔紀州の由良の法燈国師がその始祖と言っていますが、納得はできません。
 昔からぼろ(暮露)ぼろの家に使われていたと聞いています。
 少し前、不人(ふにん)という虚無僧がいてコロという技法を考え出しました。曲としては「恋慕流し」「京恋慕」「さむの井川」「よし田」などのいろいろな曲があります。でも、すべての曲がきちんとした律呂の音階に合わせたものには聞こえません。しかし、私は一節切の専門で虚無僧尺八の専門ではないのでその深い訳は知りません。”
 恐らく、この二人は今でも琴古流本曲にある「京鈴慕」などの曲を吹いていたのでしょう。絵からそれが聞こえてくるようです。

D1700年 「人倫訓蒙図彙」(1690年 元禄3)
 延宝4年(1676)に虚無僧が僧侶として認められ、虚無僧寺が寺院として公認されます。それから10年あまり、時は元禄。尺八も竹の根を有効に使ったものになります。この絵もやはり二人で托鉢をしています。残念ながら町屋からでてきた女性は、どうもお布施をあげる気はなさそうです。
 しかし、「どうしょうか?」と迷っているのかも知れません。顔を見ると何か中年のおじさんの虚無僧です。

E1750年 「虚無僧と二人の女性」(礒田湖龍斎明和‐天明に活動)
 元禄時代も終わり、いよいよ幕府公認の虚無僧が「慶長の掟書」いわゆる虚無僧に都合のいいように仕立てた偽書をかざして自信をつけてきた時代です。虚無僧を取り扱った歌舞伎の演目もでてきます。
 江戸では黒沢琴古が製管・演奏ともに有名になります。尺八吹奏は武士に限るという建前を虚無僧自ら破り、尺八が普及していきます。それと共にかっこよさを求めて虚無僧の姿をするものも増えてきます。天蓋をかぶっていますからお布施は包むのですが、「どこかの美形の若い男の人が気まぐれに虚無僧姿で歩いているのかな?」と若い女性は鏡の上にお捻りを置いてそっと天蓋の中の顔を見ます。(本当は下から見た顎しか映らないとおもうのですが、その見方は野暮でしょう)「あら、なんて美しい方でしょう」というつぶやきが聞こえてきそうな絵です。

F1800年 「東海道五十三次(坂の下49)」(葛飾北斎)
 趣味で虚無僧のまねごとをする尺八吹きは気楽なのですが、原則的に檀家を持たない、すなわちきちんとした経済基盤のない虚無僧にとって、生計を立てていくのは今も昔も苦労は同じです。
 勢い、托鉢先で暴れ回り、村方を困らせ、「それなら、お金を出したら、おまえの村には、托鉢しないでやる」という無茶苦茶な制度が虚無僧の「留場(とめば)」制です。こうなれば江戸後期の村人等にとっては「虚無僧は怖い」という意識が定着します。普化宗が明治5年に廃止になっても、この「怖い」「不気味」な意識は戦前まで続いたようです。
 しかし、江戸後期は“虚無僧=怖い”という意識だけかというと、そうでもなく、やはり人間ですから「いろいろある」ということを絵画で示してくれたのが北斎です。
 ここは東海道の最終地・京都に近い坂の下。地蔵堂で天蓋を脱いで旅の虚無僧が一休みしています。近くのきれいな奥さん、手を休めないで虚無僧と話をしています。虚無僧を見たら「怖い」というのでは全くありません。この女性の子供でしょうか。
「おっちゃん、尺八吹くんやろ。おいら祭りの笛、吹けるで。」この男の子の横笛から音が聞こえてきますね。北斎の絵のすごいところです。
「そうか、そうか」と虚無僧は返事をしながらも、目はきれいな奥さんを下心なく見つめています。
「ああ、故あって妻と別れざるを得なかったが、あいつもこの女(ひと)に少し似ていたなあ。そう言えば2歳で別れた音次郎も、今はこの男の子ぐらいに大きなってるかなあ。」そんな淋しい思いを画面の黄色の色調と、向こうに見える紅葉した木が暗示します。
 江戸時代の虚無僧の歴史を調べれば調べるほど暗澹たる思いになる私を、北斎はこの絵一枚でいつも救ってくれています。

おわりに
 虚無僧が絵に登場する1500年ころから300年あまりをほんの少しの絵画資料ですが、紹介させていただきました。
 これをきっかけに会員のみなさん方が尺八の歴史に興味を持っていただければ幸いです。
 最後になりましたが、この記事のほとんどが明暗真法流、そして一節切研究家の相良保之師のご教示に依っていますことを明記させていただきます。相良先生には紙面を借りまして厚く御礼申し上げる次第です。
 
 
※以下、インターネット上で参照できるアドレスも併記しますので、会員以外の方は画像の質が落ちますが参考にしてください。また、極めて不安定で信用度も今一つのインターネットですので、すべてアクセスできる保証はありませんので、ご承知おきください。)

@1500年 「三十二番職人歌合」(1494年頃 明応3)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he04/he04_08053/he04_08053_0002/he04_08053_0002.pdf
(但し、この絵は江戸期の模本のため、7節の普化尺八に替えられているのでそのまま、参考にはしないでください。良い写本では明らかに三節切のように見えます。)
 
A1550年 「月次風俗図屏風」(16世紀中期 東京国立博物館)
http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=66332
(8枚の画像中、下段左端の呉服屋の前)

B1600年 「職人尽図巻」(岩佐又兵衛 1630年前後 根津美術館)
http://www51.tok2.com/home/sendatakayuki/art/iwasamatabei.html
(この中の5番目の図)

C1650年 「京童」(1658年 明暦4)
(13枚目の画像/24「伏見」の項)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru04/ru04_04877/ru04_04877_0003/ru04_04877_0003.pdf

D1700年 「人倫訓蒙図彙」(1690年 元禄3)
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/i101/image/02/i101l0043.html

E1750年 「虚無僧と二人の女性」(礒田湖龍斎明和‐天明に活動)
(この時期の虚無僧図は“浮世絵 虚無僧 画像”検索で山ほどあります)
 会報に複写しました画像は、ブリュックリン美術館展の図録です。残念ながらこの画像は検索できませんでした。

F1800年 「東海道五十三次(坂の下49)」(葛飾北斎)
http://www.meibis.com/ukiyoe/cata16/ht00007.html
(このHPは極めて小さな画像で、なんとかわかる程度です)

※以上の画像検索の上で、どうしても実際の会報のコピー(カラー)をご希望の節は2011年1月末までに、120円切手を貼り・ご住所・ご氏名を書いた返信用B5封筒と80円切手1枚を同封の上、「薦僧カラーコピー希望」と明記し、事務局〒590-0531泉南市岡田2-190-7 貴志清一までお申し込み下さい。

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