戻る

インターネット会報2013年3月号

第25回聖徳太子報恩・古典尺八献奏大会に参加して  貴志清一

 3月とはいえ真冬のような寒さの中、聖徳太子報恩古典尺八献奏大会に参加するため
大阪・四天王寺の五智光院へでかけました。
 この献奏大会は流派を問わず古典尺八本曲を通して自らの修行に資する場として始まり、
今年で25回目を数えます。

 この会のすばらしいところは、例えば
「都山流本曲は明治以降にできたのだから古典本曲ではないので参加できません」といった
狭い考えなどは全くない、というところです。 実際、
四番は「都山流本曲 峰の月」、
八番は「同、寒月」、
十三番「同 木枯」、
二十六番「同 平和の山河」が献奏されました。
 勿論、江戸時代から受け継がれてきた琴古流本曲の献奏、そして貴重な日本各地の虚無
僧寺で伝えられてきた古典本曲も数多く献奏されました。全部で三十九曲、単管あり、連管
ありで変化に富む内容でした。

 さて、なぜ尺八古典本曲献奏に日本史上きわめて有名な聖徳太子が出てくるのか不思議に
思う方も多いと思います。しかし、これは自然なことでして、日本で最初に尺八を吹いたのが
聖徳太子だからです。少なくともそういう伝説があるのです。
「法隆寺古今目録抄」という文献を引用します。(『琴古流尺八史観』7頁)
"尺八(は)漢竹也。太子(が)此(の)笛を法隆寺より天王寺へ御啓の道、椎坂にて吹(き)給ふ。
之の時、山神、御笛を聞き出で御後(うしろ)にして舞ふ。"
 言うまでも無く聖徳太子が建立した四天王寺は中国、朝鮮からの使節を迎える重要な建物でも
ありました。四天王寺は上町台地の上にあり、その台地を北にたどりますと難波京址にたどり着
きます。京阪神に住んでいない方は想像できないと思うのですが、今の大阪市街は当時、
河内潟になっていていわば海のようなものでした。今の四天王寺さんを西に下ったところが船着き
場でした。外国からの使者は湊に近づくと、まず四天王寺という中国にも負けないような立派な
建物を目にしたことでしょう。日出る国の天子が治めているところが草ボウボウの沼地ばかりでは
対外的にも示しがつかなかったのでしょう。
 そういう重要な役割を四天王寺はもっていました。その四天王寺を作ったのが聖徳太子なのです。
そして、聖徳太子は尺八を吹かれました。ですから、尺八を始めた太子に対して報恩の献奏をする
のに四天王寺ほどふさわしい場所は見当たりません。その中でも五智光院は本坊の横に有り堂々
とした広い建物です。内陣の仏様に向い尺八を献奏すると、高い天井の古い木や板に気持ちよく
音が反響し、数十畳もしかすると百畳以上の広い空間に尺八の音が広がっていきます。
 私は十八番目で「琴古流本曲 巣鶴鈴慕」を吹かせていただいたのですが、地無し管の、厳しい
中にも柔らかい音色が本堂に響き渡っていくのを感じたとき、音色・技巧は尺八にとって二の次だ
ということを思い知らされました。
 この会の世話人のお一人、増谷省陀師が常々仰っている「技巧、すなわち尺八の上手・下手は
この会では関係ありません」ということが、実際に自分で献奏してみてはじめてわかります。
  その増谷師は「室生寺鈴慕」を演奏されました。古典本曲を元にしたご自身の作です。三尺以上
はあるかと見える超長管で朗々と大海の波のように吹かれました。長管の音の立ち上がりはゆっくり
していますので、演奏もゆっくり落ち着いたものになります。拝聴していて一瞬、一音だけが延々と
続くような錯覚に陥ります。一音を磨くことで禅の修行の悟りの境地、すなわち成仏(仏の境地)する
ということで「一音成仏(いっとんじょうぶつ)」と名付けた意味も何となくわかるような気がしました。
江戸時代の虚無僧達、そして明治以降の古典本曲奏者達の「一音成仏」の目指す精神をほんの
少し垣間見た思いでした。
 海童道の道曲や「阿字観」など有名な曲も多かったのですが、滅多に聞くことのない曲も演奏されました。
 もちろんそれは琴古流の私だけなのかも知れませんが、少なくとも一般の演奏会では聴けない
伝承曲もあり、興味深かったです。
 六番の明暗真法流「霧霞谷(むかこく)」
 十一番、明暗蒼龍海前島竹堂門下「越後鈴慕」
 二十番「艸霧海?」
 二十四番「善哉曲」(これは、糸竹初心集にある「吉野の山」の原曲か)

 最後に、こういう貴重な古典本曲の体験をさせていただいたご参加の皆さん、そして世話人の方々に
厚く御礼申し上げる次第です。


【ご案内】
「尺八吹奏法U」ご注文の節は、 
邦楽ジャーナル通販 商品コード5241、http://hj-how.com
(送料別途)