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                        蝉しぐれの紀州興国寺にて
      ~尺八の特性を再確認~(音源「巣鶴鈴慕」「鹿の遠音」)            貴志清一

 わたしたち愛好家の吹いている尺八の特性は、即ち日本伝統音楽の特性です。それは絵画・建築などの日本美術、広くは日本文化と軌を一にしています。
 尺八の特性を4つの言葉で代表させますと、
➀単音愛好
②自然志向
③余韻尊重
④音色重視
 この4つになるかと思います。
「単音・自然・余韻・音色」と纏められ「単・自・余・音」(たん・し・よ・ね)すなわち「短所ね」と覚えると忘れないでしょう。
 
 私は若い頃の一時期、西洋楽器のフルートに真剣に取り組んでいました。もちろん個人レッスンにも通って何とかこの楽器を高いレベルで習得しようと毎日の練習にいそしんでいました。
 ところが西洋音楽の下地の全くない環境で育った私にとって、このフルートは極めて難しい楽器でした。
 
➀「単音性」
 フルートはピアノのように同時に2つ以上の音は出ません。その意味では単音楽器なのですが西洋のフルートの曲は和音・和声を前提として作曲されています。同時に違う音を鳴らしてその響きを楽しんだり(和音)、響きの変化で感情の動きまで表せます(和声)。さらに旋律ですら2つ以上の違うメロディーを同時に進行させてその動きを楽しむのが西洋音楽の行き方です。(ポリフォニー:多声音楽)
 ところが自身の環境の影響でしょうか、私はこの多声音楽や和声が理論的にも感覚的にも理解できませんでした。その後の50年間弱で西洋音楽の和声や多声音楽を初歩的ですが理論的にやっと分かってきました。しかし感覚的には未だに大きな違和感を感じています。
 ですからフルートを発表会で吹いてもピアノ伴奏なんな聞いていなくて「何を吹いているのか自分で分かっていない」演奏しかできませんでした。
 後日、尺八本曲を修練するようになって本曲の究極的「単音性」は如何に自分に合っているかを実感した次第です。ですから尺八と言っても第二尺八が乙ロを吹き、第一尺八が乙レを吹いてブォーと和音的に鳴らす合奏曲は未だに好きになれません。
 
②「自然志向」
 この自然志向は音色とも関係があるのですが、とにかく風のささやき、波の音、鳥の声など自然界にある音色が私は好きなのです。それはフルートの「輝くような」「ビロードの肌触りのような」「澄んだ」音色の追求とは相容れませんでした。
 先生の注意にもかかわらずフルートの音に「風」の音を求めていました。普通のソナタなどを吹くとすぐに「風の音」が入った演奏を注意されますのである発表会の時など僭越にも「春の海」を演奏させて下さい、と頼みました。先生は仕方なしに承諾してくれたのですがまさか私が"尺八"のような音で演奏するとは思っていなかったようで、後でたいへん嫌な顔をされたのを覚えています。
 後日、尺八を習うようになったとき尺八に何か風の音が混じっていても一度もどの先生にも注意されなかったことは嬉しかったです。自分の出したい音と日本の伝統楽器の尺八の求めてきた音が一致したということでしょう。
 さらに尺八本曲では自然界の鳥の声、たとえば鶴の鳴き声を真似たような「コロ」を使います。勿論「風息」「むら息」も自然の音です。曲目ですら「波」間鈴慕、「瀧」落、「下り葉」、「夕暮」の曲等々、自然志向は尺八の特色であり、また日本音楽の特徴です。
 そして尺八の音は自然界の音を排除しません。今回の音源は2016年7月21日に紀州興国寺を訪ねたとき境内で吹奏したものですが、真夏ということで蝉しぐれの中での録音です。興国寺のご僧侶の「どうぞ、ご自由に献笛していってください。」とのお言葉に甘えて吹いたものです。

(音声ファイル「巣鶴鈴慕」↓)
http://www.jm3.org/bmbnt/music/346-soukakureibo_koukokuji.mp3

 極端な話ですが、たとえばフルートでチェロ奏者に通奏低音を弾いて貰ってヘンデルかテレマンのソナタを演奏するとしましょう。その場合にはこの蝉しぐれが凄い雑音となり演奏意欲もなくなりますし、聴く人がいれば、蝉の声は音楽の邪魔物になるでしょう。
 ところが録音でもお分かりのように蝉の合唱は尺八本曲の邪魔にはならず、逆に尺八演奏の伴奏になっているかの如くに聞こえます。このことから、いかに尺八の音・音楽は自然界に溶け込むことができるかが分かります。すなわち、尺八はここでも「自然志向」だと言えます。
 
③余韻尊重
 私が自分の弟子によく注意することに、「音の末尾が分からないくらいに、音を虚空に消える如く吹いて下さい」というのがあります。これは余韻を尊重し、極端に言えば音を聴くのは当然として、音が消えた後でもその余韻を楽しみたいという気持ちからきています。
 お寺の鐘は突いて音が出た瞬間の響きのあと、その音が減衰しどこまでも小さくなっていき余韻が残りますが、それを賞翫するのが古来からの鐘の楽しみ方でした。西洋の鐘はたくさん鳴らしてその賑やかさを楽しむのですが、日本の鐘はたった一つで十分なのです。
   例として日本一大きい天狗が祭ってある興国寺の「天狗堂」で吹かせていただいた「鹿の遠音」をお聴き下さい。尺八の音の末尾を虚空に消える如く吹くのが如何に大切かがお分かりになると思います。

 
(音声ファイル「鹿の遠音」↓)
http://www.jm3.org/bmbnt/music/346-shikanotoue_koukokuji.mp3

④音色重視
 この音色重視はこの世に存在するすべての楽器に共通する重要事項です。しかし尺八はとりわけ音色(ねいろ)を重視します。古管や地無し管を吹く奏者はわざわざ音色を「音味(ねあじ)」と呼び大切にします。そしてロツレチの「レが低い」とか「チが高い」と言った音高は本曲ではあまり問題にせず、どんな音色の「レ」なのかを重要視します。
 同じ高さの甲ロ、五のヒでも使われる前後の音で決められ変更は許されません。
 たとえ地塗り管でも同じ音高ならツメリは7孔尺八にしたらいいのに、五孔で歌口・指孔のメリによって音を出します。その引いたような陰影のあるメリ音を未だに大切にしています。
 
 以上、「単音」「自然」「余韻」「音色」を追求してきた尺八は当然の帰結として大音量はでません。因みにフルートは上手な奏者にかかればオーケストラと対等に協奏曲を演奏できます。
 また音色を重視して一音ごとに違う色合いを求める方向は、均一な音色にそろえようとする西洋楽器とは正反対です。そして「余韻に浸っていれば」リズム感のある演奏はまず不可能です。
 
 はじめに述べたように西洋音楽的な下地のなかった私にとってフルートは極めて難しい楽器だったのは、もしかすると西洋楽器に日本的なものを求めたのが原因だったかも知れません。
 ・息で「ふわ~」と音を出すと「タンギングが全くダメ!」
 ・出た音を大きくしていくと「後押しで吹いてはダメ!」
 ・和音感覚が身についていないので音程など気にならなかったので「ドレミファソラシドの音階すらできていない!今吹いているところがどんな和音か全く分かっていないからダメ!」
・「そのかすれた息混じりの音はフルートの音ではない、ダメ!」
 
 いくらフルートにあこがれていてもダメダメ尽くしでは気持ちもダメになってきまして、結局この楽器は挫折ということになりました。
 それから紆余曲折の後、尺八に出会えたのは幸せでした。尺八のお稽古に行き始めて最初に「タンギングで音を出してはダメです」と厳しく師匠から注意されました。このときは叱られたにもかかわらず変な嬉しさを感じました。
「そうか、この世にはタンギングをしてはいけない楽器が存在するのだ」という発見の嬉しさです。
 それから指で音を切る押し指も感動しました。何よりも師匠の音にサワリのような「ジュワーッ」という響きが入っているので安心して自分の音作りができました。フルートで「ジュワーッ」という響きは徹底的に排除すべきだと永らく叩き混まれてきたからです。
 
 私はフルートと尺八、西洋音楽と日本音楽の優劣を述べているのではありません。違う文化で育ってきたフルートと尺八の優劣をつけるのは愚の骨頂です。ちょうど味噌汁とスープ、どちらが美味しいかという質問が無意味なことなのと同じです。マグロの造り(刺身)とステーキ、どちらが美味しいか。答えは「どちらも美味しい」でしょう。
 同じように西洋音楽を享受できる下地があれば「西洋音楽は素晴らしい」し、同時に日本音楽を受け入れる感受性があれば「日本音楽も素晴らしい」ということになります。
 ただし、鑑賞者としてではなく演奏者としては、私は日本の尺八に向いていたようです。尺八を始めて38年経ちました。病気などの時を除いてほとんど毎日吹いてきました。それを支えてきたのはこの「単音愛好」「自然志向」「余韻尊重」「音色重視」という思いが自分の好みと一致したからだと、今回興国寺を訪れて再確認した次第です。
 蛇足ですがこの4つの「単・自・余・音」(たんしよね)は西洋楽器であるフルートを修得する場合には「短所ね」と言えます。
 
 その興国寺訪問ですが、その時の写真がありますのでご覧ください。 「巣鶴鈴慕」は天狗杉の横で、「鹿の遠音」は天狗堂内で吹奏しました。
 
(画像1:興国寺のある和歌山県由良町JR由良駅)
 
(画像2:興国寺法堂と天狗杉〈右〉)
 
(画像3:天狗堂)
 
(画像4:天狗堂内の日本一大きい大天狗)
 
(画像5:ちょっと尺八が吹けるからといって天狗になってはいけないためのお守り。すなわち天狗にならないためのお守り
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