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          鈴木法印著『虚空山 布袋軒』を拝読して
                                      貴志清一
 尺八愛好家ですと「布袋軒鈴慕」という名曲を知らない人はいないと思います。奥州系の細かいコブシに似た装飾音が何とも言えず良い雰囲気を醸し出している曲です。
 私もいつか吹けるようになればいいなあという憧れを持っていますがCDを聴いたり楽譜を追いかけたりしても、どうしょうもありません。浦本浙潮のような名人の元で何年も稽古をつけていただいて、やっと吹けるようになるかなと思っています。そういう訳で、今のところ「布袋軒鈴慕」は聴くだけの曲となっています。
 もしかすると「布袋軒鈴慕」は東北の厳しい寒さや風土、そして言葉を体で知らなければ吹けないのかな、と思ったりもします。
 そういえば度々ご紹介させていただいてるDVD「技に生きる」の中で二代目酒井竹保が奏する「布袋軒鈴慕」の竹韻が雪の降り積む竹林を地を這っていく印象的な場面がありますが、奥州の名曲に相応しい映像だと思います。
 ここでは、その場面の音声だけですが、お聴き下さい。
(布袋軒鈴慕)
http://www.jm3.org/bmbnt/music/351-futaikenreibo.mp3 

 さて前置きが長くなりました。
 この「布袋軒(ふたいけん)鈴慕」というのは今の宮城県、仙台市にほど近い名取市増田にあった虚無僧寺の所伝曲です。何となく「布袋軒」という名前だけは知っていたのですが、実際にどんなお寺なのか全く知りませんでした。
 本会会員さんのご教示で『虚空山 布袋軒』という布袋軒のことを網羅して研究された鈴木法印氏の著作を知り、幸いご恵送いただいたので本当によく理解できました。
 1999年の発行で限定300部とのことでご存じない方も多いかと思います。この素晴らしい著作の一部なりとご紹介させていただいてこの本に興味を持っていただければ幸いです。
 関東方面ですと確か国会図書館に所蔵しておりますので、いつでも閲覧できると思います。
 以下、ページ数は『虚空山 布袋軒』の引用箇所です。
 
 (4ページ)
 「ここでは布袋軒に関するあらゆる資料を網羅したつもりである。
 (中略)普化尺八の本曲の作曲面でのすばらしさ、吹奏面での難しさ等を考えれば、虚無僧尺八が如何に文化的にレベルの高いものであったかは、尺八を修行したことのある者には容易に理解できる」
 
 ここでは著者のこの本にかける並々ならぬ情熱が読み取れます。また普化尺八の本曲は高い文化であるということも全く同感です。
 
(8ページには)『安永(1772~1780)書出』を元に、そこに「虚空山布袋軒 名取郡増田村」の記載があり精密な考証をおこなっています。
 布袋軒は伊達政宗が芭蕉という名の虚無僧に市中に庵を賜ったが、後、市中を嫌い、名取郡増田に移ったのが布袋軒と書かれています。
 
(画像:布袋軒の古文書)
 
(60ページには)仙台藩の判決記録『刑罰記』を元に、布袋軒九代目の芭蕉が三外という弟子やその一味に跡目を狙われ、結局仙台藩が裁いて当の三外は獄門に処せられた事件が詳しくかかれています。
 これも当時の虚無僧の一端が窺われて興味深いものです。
 
 さて、独眼竜政宗こと伊達政宗は初代芭蕉という虚無僧を引き立てましたが、伊達政宗自身、尺八を愛好したことが述べられています。
(102ページ)
 『普化宗史』に引用された伊達政宗自筆の手紙に少々誤りが見られますので正しい翻刻を103ページに記載しています。
 
 『普化宗史』(p145)をお持ちの方は以下の文章を参考に訂正して下さい。
 
 下向の後 はや御床しく存候 内々語り申候つる
 ほたるの尺八 ならぬ事なりと 彼宗竿与御相談
 ならせて可給候
    とふほたる 雲のうへなる物なりと
    かかるへきならは かりにつけこせ
 なるもならぬも 先一左右まち申候 やすからぬ
 尺八のよし候まま 無和理所望候と存候
 また 此以前の尺 てにあひ不申候間 其方迄近日中
 返し可申候 恐々謹言
 舟与へ一書ととけ可給候 かしく
    卯月二十六日        政宗(花押)
                越前
                 政宗
 名金右
 
 著者の解説をまとめて見ますと、この手紙の要旨は以下の通りです。
 
 公家の近衛家に使えていた名金右(名村金右衛門)に内々に入手を頼んでいた「ほたる」という名の尺八(一節切)を私(伊達政宗)はどうしても欲しい。その当座の代用としての尺八はしっくりこない(手に合い申さず)ので近日中に返します。
 舟与(という人物)に手紙を届けて下さい。
 
 以上が主な内容ですが、この伊達政宗自筆の手紙から分かることは、如何に政宗が尺八(一節切)を愛したかということです。
 
 ここでいきなり尺八=(一節切)と解釈していますが、実際この時代の音楽史を知っていますと100%、この文面の「ほたる」という尺八は一節切だということが分かります。
 
 ○1600年前後の時代に戦国大名や家臣たちは一節切をこよなく愛した。特に小田原の早雲の子、北条幻庵は一節切の名手であり製作の名人であった。小田原合戦の時、家康が幻庵作の一節切一本とお城一つを交換条件に北条側の香沼姫に和議を迫った伝説は有名です。
 信長所持の「まむち」とい名の一節切は家康に渡り今でも大切に保存されています。
 
 ○一節切の大愛好家、朝倉義景愛蔵の一節切は一乗谷が焼き払われる時、我が子・愛王丸に短剣と共に託されました。愛好丸は落ち延びる途中に殺害されますが、その所持していた一節切は「鳳墜」という名で今でも福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館にありまして、私も数年前に見てきました。
 
 ○このころ、薦僧(後の虚無僧)の持っていた尺八は三節切でした。もちろん諸国を物乞いして歩く下層民でしたので漆塗りや樺巻きの立派な一節切とはくらべようもない尺八でした。1650年頃になっても中村宗三が『糸竹初心集』で「呂律の合わせたるもの(楽器)とも思えない」ような代物でした。まして、戦国大名が手にする「銘」のある三節切などは存在するはずもありませんでした。
 ですから、この伊達政宗自筆中の「ほたる」の尺八は確実に一節切だと言えます。
 因みに私の所持している2本の一節切の内1本は樺巻きの上に黒漆をかけ金文字で「瀧颪」と書かれています。
 ( 画像「瀧颪」一節切 )
 
 思わず一節切の話になってしまいましたが、それも含めてこの『虚空山 布袋軒』という著作はたいへん興味深い本です。
 機会がありましたら是非ご一読をおすすめします。