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        俳聖 松尾芭蕉と尺八       貴志清一

 「芭蕉と尺八」と言いますと「芭蕉が尺八を吹いた?」となるのですが、そうではありません。
 芭蕉の発句(俳句)に尺八を読み込んだのがあるということです。延宝5年(1677)『六百番発句合』にあります。
 頴原退蔵著「芭蕉俳句新講上」を参考にさせていただきます。

"先(まづ)知るや 宜竹(ぎちく)が竹に 花の雪"

〈解説〉
 宜竹は一節切尺八の名手であり、また名製管師でした。その名は諸書に見られますがたとえば貞享元年(1684)の
「雍州府志」巻七、土産門下、笛尺八の条、
「所々、これ(一節切尺八)を造る内、宜竹の作る所は妙たり。近き世、指田(さしだ)某、作る所、また佳なり」
 とありますので、「宜竹が笛」は宜竹の製作した良い一節切尺八と分かります。
 また「花の雪」ですが、当時から300年以上も経った私たちには分かりづらいです。しかし当時の人は「花の雪」とあるだけで、
 花の雪→雪のように満開に咲き誇る桜の花→桜と言えば吉野山→吉野山といえば当時のロングヒット曲「吉野の山」とつながります。
 「吉野の山」の歌詞は次の通りです。

「吉野の山を 雪かと見れば 雪ではあらで (やあ これの)花の吹雪よの (やあこれの)」
 
 この曲は1664年刊「糸竹初心集」という一節切・琴・三味線の教則本のはじめに載っている曲です。
実際の『糸竹初心集』では「大和踊りのうた」となっていますが、これが「吉野の山」です。



 影印だけでは古文書を趣味にしている方しか理解できませんので嘗て作成した
 「○古管一節切による復元演奏CD付き『糸竹初心集』(一節切の部)
 原文-現代語訳- 解説(一部五線譜)全文活字、影印(一部)」の当該ページを掲載します。



 持ち運びに便利な一節切尺八で伴奏されました。
 今で言えばカラオケのようなもので、正しい音程で歌うにはたいへん便利なものでした。
 その内、「歌のない歌謡曲」扱いで一節切の独奏でもよく吹かれたようでした。
 一節切尺八の音色は室町~戦国~江戸時代前期に人々の心を癒やしました。
 もともと一節切はある意味、尺八と同じようなものですので尺八譜に直した下記「吉野の山」を実際に吹いてみて下さい。
 また私の復元演奏に合わせて歌っていただくと、300余年前の江戸前期の歌がよみがえります。

(尺八譜の吉野の山画像)

(音源)
http://www.jm3.org/bmbnt/music/425-7.MP3

 さて、そのことを踏まえてこの発句を鑑賞します。

「まだ満開の桜の時期には少々早い。しかし素晴らしい音色の宜竹作の一節切尺八で「吉野の山」の
演奏を聞くとまるで全山満開の吉野の桜が目に浮かんでくるなあ。」
 こういう所だと私なりに考えています。
 おそらく芭蕉は宜竹作の一節切尺八の音色を知っていたのでしょう。そして尺八は「吹く」ものですから
 「風に吹かれて舞い散る桜の花びら」をもこの発句で連想させる意図があったかも知れません。
 「吉野の山」は琴三味線でも弾かれたのですから、
 "まず知るや 三味線の音に 花の雪"では絵にならないでしょう。
 ですからこの発句はやはり芭蕉の卓越した文学的才能を感じさせる名句だと思います。
 芭蕉が故郷・伊賀を出て俳諧宗匠として身を立てるべく江戸に出たのが1672年。
 しかし無名の俳諧師では生活できません。小石川の水道工事のアルバイトをしたりして食いつないでいました。
 1677年頃やっと宗匠として立机披露の万句興行ができましたが、生活はきびしいものがあったと思われます。
 そして1682年江戸での大火で焼け出され門人の救いの手で甲州へ。翌年江戸に帰るのですが1684年には
 「野ざらし紀行」の旅に出ます。その後、旅を重ねついには1689年「奥の細道」の旅に出ます。
 数多くの名句を生み出した芭蕉ですが常に「乞食僧」のような生活をしていたことで自然と人の心の痛みが
 我が事のように分かり、それが心の琴線に触れるような作品を生み出していったのではないかと思います。
 「道祖神の招きにあひて」放浪は止まず、1690年4月から7月まで滋賀県の石山寺の近く、国分山の幻住庵で過ごします。
 庵から琵琶湖が見渡せる場所ということで、私も先日行ってみました。
 あいにく曇りで水蒸気が多く琵琶湖は見えませんでしたが今でも閑寂な場所です。

(写真1,2,3)






そのあと、芭蕉がここに葬って欲しいと願った膳所の義仲寺へも行きました。
日本歴史で余りファンの少ない木曽義仲ですが、芭蕉は敬慕の念をもっていたようです。
義仲の墓の横に芭蕉の墓が建てられていました。側に小さな小さな「巴御前」の墓が印象的でした。
(写真4,5)