会報 73号
 
「醒睡笑」所載の「こもそう」「尺八」について
貴志 清一
 醒睡笑の作者、安楽庵策伝は浄土宗の僧で戦国から江戸時代初期に生きた人です。慶長18年には60歳にして京都誓願寺に進山し、第55世法主となりました。
 醒睡笑は東洋文庫31では『醒睡笑−戦国の笑話』となっているとおり、いろいろと面白い話を集めたものです。
 策伝の自序に「策伝某小僧の時より、耳にふれておもしろをかしかりつる事を、反古の端にとめ書きたり」とあります。
 そして止め書いたものを寛永5年(1628)3月17日に京都所司代、板倉重宗のもとに持参、献呈したのが本書です。これは8巻本で、その中から抜粋して版本3冊にしたのが“寛永刊本醒睡笑”です。
 
 この本の中に「尺八」や「こもそう」という言葉が出てきて、普化宗成立のひとつのヒントになります。
 
 今回は寛永刊本醒睡笑の原文2つから戦国末、江戸初期の尺八の歴史を垣間見てみます。
 
一つ目(原文)
「義政将軍の御前に 同朋万阿弥出たる時、作意を御覧ぜんとやおぼしめされけん 尺八をなげ出し「それそれ、車がゆく」と仰ければ、万阿弥、いそぎ立ちちゃくとをさへざまに「うしなうてはなるまい」と、とりて懐にいれしも
 
(訳)
 銀閣で有名な足利義政の御前に、同朋衆のひとりである「万阿弥」がいました。その時、ひとつ機知を試してみようと思ったらしく、尺八(一節切)を投げ出して、「それそれ、車(牛車)がゆく。」と仰せられたので、万阿弥は急いで立ってチャクと押さえざまに「うし(牛)なうてはなるまい」といってその尺八を懐にいれたのも(おもしろい)
 
 説明の要もないかも知れませんが、牛車は牛に引かせるもので、車だけでは困ります。だから転がる尺八を車に見立てると「牛無うてはなるまい」で、それが(尺八を)「失なうてはなるまい」なので取って懐に入れた……との機知です。
 
 ここで尺八が今の普化尺八ではなく、一節切だと分かるのは、当時の「尺八」という言葉の用例からも分かるのですが、この本文からも分かります。
1.ころころ転がる楽器である
2.懐へすっと入る大きさである。
 ここで言う尺八というのは1,2より一節切(約一尺一分)であるとしか考えられません。
 私の所持している、元禄以前の一節切を見ていただければよく分かると思います。
 また、実物を吹いてみたい方は、会員さんであれば対応いたします。 
 とにかく、室町時代から元禄ごろまでは糸竹初心集(1664)の記述も考え併せますと
 尺八=一節切(ひとよぎり)というのが常識だったことが分かります。だからこそ、元禄時代ごろに出版された「普化尺八」の教則本が『三節切初心集』とわざわざ三節切と記載されているのです。
 
 
二つ目(原文)
尾州、裕福寺に澤良といふ長老、所談の砌
こもそう一人来たり。庭にてきく。澤良「縁に
あがりて」とあれば。「心得候」と縁にあがる。兎角
しくべきものなし と、長老「再、普化僧」と
よぶ。「やっ」とこたふ。「其こもをしけ」  
 
(訳)
 尾張の国の裕福寺に澤良という寺の長老が誰かと話をしているとき、薦僧が一人来ました。長老は話を続けていましたが、薦僧はそれを庭で聞いていました。
 そこで、澤良は「縁側に上がって」と言ったので薦僧は「心得ました。」と言って縁に上がりました。
 ところが下に敷くものも近くにありませんでしたので、長老はもう一度「普化僧」と声をかけました。
 すると薦僧は「はい」と返事をしたので、すかさず長老は「其の薦を敷け」と言いました。
 
 この話の面白い?ところは、この時代すでに薦僧は“薦”を持っていないのに、長老は相手が薦僧なのでその名前の薦(実体のない)を敷けと言った所です。
 この場合、もしも戦国末期〜江戸初期に薦僧が“薦”を持っていれば実際の薦を敷けばいいので、これでは笑い話にならないのです。。
 この話から想像できるのは、
1.後の虚無僧の由来(ルーツ)は薦を携えて諸国を廻る人々であった事。
2.普化宗が延宝年間の幕府の承認を得る前は、長老等の正規の僧侶からは「薦を敷け」という少々尊敬していないような言われ方をしていたらいし事。
 特に、後世、普化宗は武士身分で無ければならないと声高に叫ぶのも、元々薦を携えて諸国を廻っていた歴史があったからかも知れません。
 もちろん虚無僧は普化宗廃止の明治初めまで、基本的には各土地土地を托鉢して回るということが続きました。