インターネット会報 2002年12月号



「鹿の遠音」について 〜石綱清圃先生のご論説を拝読して〜  

琴古流本曲で秘曲として伝承されてきた「鹿の遠音」は、流派を問わず一度は吹い てみたい名曲だと思います。  幸い私は琴古流を習っていますので「鹿の遠音」は自分の演奏会のレパートリーの ひとつでもあります。  この曲は“口伝”という、いわゆるムラ息の奏法が使われていて大変印象深い曲に なっています。しかも、二管で牡鹿・雌鹿を模して掛け合う趣向はこの曲を一層素晴 らしいものにしていると思います。    さて、この有名な「鹿の遠音」についての素晴らしい解説が平成元年(13年前) の虚無僧研究会機関誌「一音成仏」に掲載されています。  今、改めて読み返してみますと、大変素晴らしい、有意義な内容であることを再確 認いたしました。  今回の会報では、著者の石綱清圃先生の業績を偲んで、不肖私が紹介させていただ くことにしたいと思います。  さっそくその箇所を引用させていただきます。(一音成仏第18号、23頁) 「鹿の遠音」考 私は、昭和五十三年七月三十一日付けで『楠正勝の事蹟』というパンフレットを同好 の士にお配りしたことがあった。いま読みかえしてみると、幼稚で拙劣で間違いばか りなので、全く汗顔の至りであるが、その中でたった一つ、「尺八本曲、鹿の遠音は 楠木の角笛から出たものではないだろうか」という疑間を提示したことは、誤りでは なかったと自負している。どなたからの指導もなく暗示もうけないで、どうしてここ に思い至ったのだろうか、とその当時を振り返ってみると柳か不思議な思いがしない でもないが、書いたことに自信がなく、かつ不安であったことは事実である。 その私に力をつけてくださったのが『明暗三十七世谷北無竹集』であった。その中 に、「滝川政次郎記南北朝の亡霊」の一部が載っていて、次のようなことが書いてあ る。 「三重県志摩郡和具町の水掛け祭を見にいったが、この地方にも室町将軍の弾圧のた めに地下にもぐった楠氏の子孫が残ってゐる話をきいた。虚無僧の間に伝はる尺八明 暗流は地下にもぐった後南朝の遺臣等が互ひに味方を認識する合図の秘曲から発展し たものであるといはれてゐる。後略」 法学博士滝川政次郎教授といえば、法制史ではわが国随一の権威であり、専門外の私 でもそのお名前ぐらいはとうに存じあげていた方である。その滝川博士がほぼ私と同 じょうなご意見をお持ちであったということは、何よりも心強い。無竹集を贈ってく ださった稲垣衣白師に改めて深甚なる感謝の念をささげると同時に、それからという もの、博士がお書きになった後南朝関係の書物を精力的に読みはじめた。そして南朝 残党と虚無僧のつながり、および明暗尺八の起源などについて博士がどのようにお考 えになっておられたか、ということをはっきりと知ることができた。すなわち次のよ うである。 ○文春文庫『歴史よもやま話日本篇(上)』「後南朝秘話」 それ以後、後南朝の遺臣として、たぶんこれだろうと思いますのは、たいてい虚無僧 かなんかになっちまったようで、藤沢の遊行寺の過去帳あたりに見えています。 ○『後南朝史論集』「後南朝を論ず」 藤沢の遊行寺には、南帝王の御位牌があり、その過去帳には南朝の遺臣と目される者 が多く見えている。明暗流という尺八の流派は、南朝の遺臣が互いに味方であること を知らす暗号から生れた流派であるといわれている。故に南朝の遺臣が多く東国に逃 れたことは推測できるが、陸羽まで落ち延びた確証はつかめない。 私不肖にして未だ遊行寺の過去帳を拝見するの栄に浴していないので、何とも言えな いが、初期虚無僧の風習や分布の状況などからみて、博士の所論の正確であることが 立証される。すなわち、そもそもの武浪僧時代には宗派の如何を問わなかった。真言 宗であろうが一向宗であろうが禅宗であろうが、要するに僧形であればよかったので ある。そして長い間、世を忍び、地下に隠れていた結果、必然的に閉鎖性が強くな り、そのためにまた草創時代の風習が化石となって現代にまで散見される。虚無僧研 究者の間で、時折り真言宗や一向宗などの遺風が発掘されるのはそのせいである。南 朝残党と原始虚無僧との相関を推定した博士の所論は今後とも十分に研究してゆかね ばなるまい。 次に「南朝の遺臣が多く東国に逃れたことは推測できるが、陸羽まで落ち延びた確証 はっかめない」のところである。古十六派の節で述べたように、初期虚無僧各派の分 布は東国までであって、奥州地方には生抜きの派閥がなかった、その原因を博士は、 南朝残党の分散範囲から推して明快に論断しておられるのである。関東には虚無僧寺 が圧倒的に多かったが、その理由について多くの学者がそれぞれの意見をのべておら れる。それらはすべて傾聴するに値する貴重な卓見であるが、その中で最も基本的で あり、かつ説得力のあるのはやはり滝川博士の説であろう。 その博士がさらにいう。「明暗流という尺八の流派は、南朝の遺臣が互いに味方であ ることを知らす暗号から生れた流派であるといわれている」。 博士がこの説をどこから採用されたのかは知る由もないが、軍陣の間に使われていた 角笛の存在を思うとき、今さらのようにその信憑性の高いことが思い知らされる。し かも仲間であることを確認し合うための暗号であるからには、そんなに長いメロディ である必要はたい。二音か三音、あるいはせいぜい七、八音もあれば十分であろう。 その短音型を何度か繰りかえし、応える側もまた何度か繰りかえす。これが何十年と いう長い間の積み重ねとなって一つの曲が生れてくる。すなわち「鹿の遠音」となっ て、遠く古い日の幻想をよみ返らせてくれるのである。  そしてこの曲があまりにも名曲なので、昔から色々に解説されている。そのもっと も普遍的なのが、秋の発情期に際して、深山幽谷のなかに雄鹿が雌鹿を呼び、雌鹿が これに応えるという筋書である。 これは  おく山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の声きくときぞ秋は悲しき と詠んだ猿丸大夫の感懐をそのまま曲の解説に取りいれて、夫婦の情愛をうたいこん だ曲であるとしている。これと双壁をなすのが「鶴の巣籠り」(琴古流「巣鶴鈴慕」) で、こちらは親子の情愛を詠っているとして、ともに名曲中の名曲としてもてはやさ れている。が、琴古流の「巣鶴鈴慕」はやや冗長にすぎ、奏者、聴者とも緊張の度合 いを維持するのが困難である。ところが「鹿の遠音」になると、演奏時間も手頃であ り、また大部分を雌雄二手にわかれてのかけ合い形式をとっているので、緊張感が薄 らぐということはない。しかも琴古流では早くから陰旋法にきりかえたので、悲痛な 切実感が全篇にみなぎり、一つの詩劇としてその情景を目に彷彿たらしめるものがあ る。  解説書のなかには、よく奈良公園や厳島、金華山たど鹿の名所へいって鳴き声を研 究した、などと書いてある本を見かけるが、これは愚かなことで、公園に飼われてい る雄鹿が雌に不自由することはない。そしてまた、雌鹿が声高らかに応じるというよ うなこともあり得ない。曲は詩劇としての効果をあげるために、情趣ゆたかな擬音で 雌鹿の鳴き声を表現しているのであるが、この辺のところも解説書のなかに取りいれ てほしいものである。野生の鹿の呼び合いはむしろ雌のほうからはじまる。 キュウーツ・キュウーツという雌鹿の鳴き声にきき耳をたてた雄鹿は、興奮のあまり猛 裂な勢いで突進してくる。そして半ば襲いかかるような状態で情を遂げるのだが、こ こに人間という悪者が介在してくる。野生の鹿の習性を知りつくしたかれらは、雌鹿 の鳴き声によく似た笛を考案し、これで雄鹿を誘い討うのである。これを鹿笛とい う。何と悲しく痛ましい笛なのだろう。  『徒然草』九段にいう。 「女のはける足駄にてつくれる笛には秋の鹿かならずよるとぞ、いひ候へ侍る」。  足駄とあるから恐らく木製の笛だろうが、どんな構造なのか皆目わからない。けれ ど兼好法師のころにはすでに鹿笛があったことは事実である。そして楠木党の吹く角 笛が鹿笛と混同され、「鹿の遠音」となったとしても不思議はない。 最近、『明暗尺八界の奇人源雲海集』という本が出版された。源雲海という尺八家は 天下の奇人として有名だったので、私もお名前だけは存じあげていたのだが、風貌に 接するのは始めてである。 その本の九十四ぺージに「鹿の遠音は七八九寸の三本用ゆ」と書いてある。その出処 もわからないし、またそれから先の吹き方もないので、その三本をどのように使い分 けたらよいのか不明であるが、想像するに、長さ、つまり律のちがう三本の尺八のか け合いで吹け、ということではないだろうか。そうすると三回ずつ繰り返しになる音 節がすべて一回ずつのかげ合いになる。この三という数字が不特定の複数を表してい ると考えると、その昔、味方や妻子を求めて呼び応えた楠木の角笛に通じるものがあ る。  角笛がやがて竹笛に変り、長大化して武器としての性格も帯びてくる。根節を利用 すれば熊や狼に立ち向かうこととも不可能ではない。そして尺八武浪僧が生れ、虚無 僧へと脱皮してゆくのである。 【貴志:補足】  上記の「 足駄とあるから恐らく木製の笛だろうが、どんな構造なのか皆目わから ない。けれど兼好法師のころにはすでに鹿笛があったことは事実である。」とありま すが、この鹿笛は弥生時代の遺跡からも出土する有名なものだそうです。  私は実物は見ていないのですが、龍谷大学の先生から聞いた所では、平板にガマガ エルの膜を張り、板に取り付けた吹く口でもってブーブー音を出すものだそうです。 その音は発情した雌鹿の鳴き声に極めて似ているということです。  当然、牡鹿は、人間も同様ですが、悲しいかなその声に惹かれて突進してきます。 そこで人間に捕まってしまうということです。  次の、考古学遺物の図がそれです。(インターネット版:省略) ここで、石綱清圃先生が引用した「徒然草」の段を紹介しましょう。  読むと身につまされる思いがします。鎌倉時代から南北朝を生きた吉田兼好の人間 観察眼の鋭さに今更ながら敬服します。  文末に、原文を掲載しますので、参考にしてください。  世の人の心まよはすこと、色欲にはしかず。人の心はおろかなる物かな。にほひな どは、かりの物ぞかし。しばらく衣装にたき物すとしりながらえならぬ匂いには、か ならず心ときめきする物なり。  くめの仙人の物あらふ女の、はぎの白をみて通をうしなひけんは、まことに手・あ し・はだへなどのきよらにこえ(肥え)、あぶらづきたらん。他の色ならねば、さも あらむかし。女はかみの(髪の)めでたからむこそ、人のめ、たつべかめれ。人のほ ど、心ばえなどはもの いひたるけはひにこそ、ものごしにもしらるれ。ことにふれて、うちあるさまにも。 人のこころをまどはし、すべて女の、うちとけたる。いもねず。みをおしとも思たら ず。たゆべくもあらぬにも、よくたへしのぶは、ただ色をおもふがゆへなり。まこと に愛着の道、そのねふかく源とをし。六芸の楽欲おほしといへども、皆厭離しつべ し。  その中にただかのまどひのひとつ、やめがたきのみぞ。老いたるも、わかきも、智 あるも、おろかなるも、かはる所なしと見ゆる。  されば、女のかみすぢをよれるつなには大ぞう(象)もよくつながれ、女のはける あしだにてつくる笛には、秋のしか、かならずよるとぞ、いひつたへ侍る。みづから いましめて、おそるべくつつしむべきはこのまどひなり。