インターネット会報2003年3月号
尺八で「テイク・ファイウ゛」を聞いて  貴志 清一

 昨年ですが、すこし縁がありまして、教育音楽関係の講演会で尺八演奏を聞く機会がありました。  ジャズのスタンダードも演奏曲目に入っていました。私の考えでは、今は2,30年まえと違い、尺八を使って「Take Five」のようなジャズの曲を聞いても「それがどうしたの。アルトサックスで吹いたらいいものを。」と言えるような時代になっていると思っていました。 しかし、当日の演奏会場に来た小・中学校の音楽の先生方のほとんどが、尺八で演奏するジャズの曲を聴いて熱狂的な拍手を送っていました。私はその様子を見て、すこし暗澹たる気持ちになりました。  

当日の演奏者の尺八テクニックはかなり高い水準で、尺八を自由自在に操っていました。 しかし、私の個人的な感想では、その日の演奏は音楽的な感興からはほど遠く、曲芸尺八のように感じました。「鶴の巣ごもり」も単に鶴の鳴き声を上手に真似ただけ、という感じがしました。  私の誤解かも知れませんが、それは日本文化に敬意を払っていないことから来ているのではないかと思います。 演奏の途中、いろいろと日本文化に関する話もされるのですが、今ひとつ説得力に欠けると思いました。  せっかく高度なテクニックを持っていらっしゃるのですから、今後、深く日本文化を理解してより深みのある音楽的な演奏をしてもらいたいものだとも思いました。  

講演の中で、記憶に残ったのは「俳句」と「尺八」との関連性についてでした。その場ではあまり関心しませんでしたが、あとで考えると、この日本文化のいくつかの特徴を尺八音楽も具現していることに気が付いたのは収穫でした。 私などは、空気のように感じているので却って気が付きにくいのですが、日本文化の特徴がやはり尺八音楽にも現れているということです。

ここでは「日本文化を英語で紹介する事典」の「幽玄」の項を引用して考えていきたいと思います。(ナツメ社ISBN4-8163-2646-4)

The subtle and profound:(幽玄) What is neither apparent in the meanings of words nor clearly visible to the eyes is ,for those very reasons ,the aesthetic world that man can sense behind it all: This is yugen. It is one of the emotions flowing in the depths of the Japanese feelings that value suggestiveness and encourage brevity. This kind of emotion is related to the process of shaping a short poetic form that had to express everything using limited kinds and numbers of words. That is to say , the beauty of yugen, which values suggestiveness ,is a beauty that takes shape where only a few words can awaken many thoughts. Therefore ,it can be called an aesthetic world made possible only in a community sharing a homogeneous culture ,where people communicate without saying everything.

(和訳) 言葉の意味には表れなくても、あるいは目には定かに見えなくても、それ故にこそ、その奥に人間が感じることが可能な美の世界、これが幽玄です。これは、余情を重んじ、省略をよしとする日本人の心情の根底に流れている情緒の一つです。このような情緒は、用いる言葉の種類や数が限られた中で全てを表現しなければならなかった短詞形の成立過程にも関係があります。  つまり余情を大事にする幽玄の美は、少しの言葉で多くのことを考えることが可能なところに成立する美です。従って、すべてを言わずとも相手に通じる、同質の文化を共有する共同体の中でこそ可能となった美の世界であるとも言えるでしょう。  

上記の文のはじめに「尺八の美は」という言葉を補って読むと、不思議と尺八音楽の特質が見えてきます。また西洋音楽の本質や特質を理解せずに形だけを真似して作曲したたくさんの新曲が、なぜ低次元の音楽になっているかも明らかになってくると思います。  尺八音楽は、「余情を重んじ、省略をよしとする日本人の心情の根底に流れている情緒の一つ」の表れですので、尺八を多孔にして闇雲に速い旋律を吹く方向には行かなかったのです。 つまり、余情を大事にする尺八の美は、少しの音で多くのことを表現することが可能なところに成立する美ではないでしょうか。

虚無僧研究会の機関誌の題名にもなっている「一音成仏」(いっとんじょうぶつ)は、まさにこの省略の美、余情の美を表します。つまり、突き詰めてみれば「一音」で十分であるということです。 

海道道祖が言う「もう、人間が吹く必要もない、竹林の枯れた幹に一吹きの風が発する音、その音が理想だ」(要旨)というのは、極論ですが日本の伝統的な美意識をよく言い表しています。 たとえば、多孔尺八はメリ音の必然性がないため、音に変化がありません。多孔尺八は音のおもしろさに欠けます。五孔尺八の「ツメリ」の籠もった音からはっきりしたレに移るときの音色の変化にはすばらしいものがあります。 古曲・新曲・本曲中、尺八で幽玄の美を表現できるのは、やはり「本曲」だと思います。

それ故、私は自分の習った琴古流古典本曲を演奏の基本にしています。 また、琴古流本曲以外にもすばらしい本曲がたくさんあります。 残念ながら、その流派の手
(技法)と曲の素晴らしさが密接に結びついている曲は、吹きたくてもなかなか吹けないものです。 しかし、私の管見ですが、曲そのものが素晴らしく琴古流風に演奏しても曲の美しさが損なわれないもの一曲あります。 それは海道道祖の道曲「手向」(たむけ)です。もっとも尺八らしい音色である乙ロから始まり、徐々に音域が広がり、時には子守歌のような旋律があり、突然激しいウ三の吹き破るような響きが混じり、それはそれは素晴らしい曲の構成です。 この曲は長管で吹くとより素晴らしいのですが、私はこの名曲を広めたく、本年1月に紹介しましたCDでは一尺八寸管で演奏しております。楽譜もつけていますのでご参考にしてください。 (なお、「手向」所収のCD『鹿の遠音、他』はまだ残部がございます。申し込み方法は2003年1月分のHPお読みください。)  

最後になりましたが、日本的な美が価値を持ち続ける限り、尺八の古典本曲も消滅するところまでは行かないのではないかと考えるこの頃です。